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北村茶園を訪ねて


取材・文=大歳昌彦

不安より夢のほうがはるかに大きかった
 長崎県は北松浦郡の南端、佐世保市の近くの山里、佐々町牟田原開拓地に住む北村親二さんは、昭和九年、平戸で小作農家の次男坊として生まれた。当時の農村では不文律のごとく、長男が家督を継ぎ、次男他は家を出なければならなかった。小作農家ではなおさらである。中学を卒業後、県の茶業指導所(現県立彼杵茶業支場)で学び、単身、十八歳の時に標高三百メートル、この牟田原開拓地にやってきた。水も電気もなく見渡す限りうっそうとした雑木林だった。

 「こんな水も出ない荒れ地でいい農作物ができるはずがない」。親戚一同が猛反対した。そんな周囲の声も親二さんは一向に意に介さない。「一町七反という、私にとっては夢のごたる広さの土地がこうして現実に自分のものになるとですけん不安より、希望ちゅうか夢ちゅうか、そっちのほうがはるかに大きかったとです」。県の茶業指導所で学んだお茶栽培の技術を思う存分生かす仕事がしたい。親二さんの挑戦が始まる。「水が出なくてもお茶ならなんとかなりそうだという確信がありましたから」。掘っ立て小屋の六畳一間、文字通り、爪の先に火をともす生活だった。 毎日の食べ物にも事欠く始末。「しかし、これは覚悟してましたから」。ヒエ、栗、キノコ、自然薯、あけびなど野生のものを採って食べる自給自足の生活である。
 
何としても自園名の茶を売りたい 
 昭和三十二年、こんな極貧生活の親二さんに嫁いできてもいいという奇特な人が現れた。「貧乏には慣れていましたからね、私」。鹿児島県は川内市の出身、二十三歳のサツ子さんだ。 米二升と一本の醤油が嫁入り道具だった。六畳一間の新婚生活が始まる。「朝は五時起きで、夜中の十二時まで働き詰めに働きました」。しばらくして、自然薯や里芋を天秤棒で担いで八キロの道のりを下の町まで売りに行く行商を始めた。米はお茶と交換してもらっていたは、文字通り、食べていくのがやっと、そんな生活だった。 
 早朝から深夜までの開墾や炭俵作りの過酷な労働、それに食べるものも満足にない。サツ子さんは栄養失調になり、妊娠しても流産を繰り返す。三十四年に待望の長男、誠さんを授かった。五年後の三十九年に次男の正紀さんが生まれた。
 五月の新茶の時は家族総動員、昼も夜もないくらい忙しい。学校行事の遠足が茶摘みとぶつかった時は二人とも、学校を休んで手伝ってくれた。
 「何としても自園名の茶を売りたい」。サツ子さんは幼い兄弟の手を引いて、毎日往復十六キロの道を行商に歩いた。
 平成八年、毎日農業記録賞で誠さんの『消費者とのふれあいを糧として』の論文が、地区優良賞を受賞した。私はそれを読んで泣きそうになった。論文はこんな書き出しで始まる。「空腹に耐え切れず目が覚めると、夜中の二時だった。製茶工場では、まだ汗を流して働く両親がいた。両親を早く楽にしてあげたい。茶業後継者としての道を歩いて行くことを決意したのは、私がまだ小学校二年の頃でした」 サツ子さんがこの頃のことを振り返ってしみじみ言う。「子供たちには可哀相なことをしました。たとえ一時間でもいいから、母らしく抱きしめてやりたかったとです。当時、そんな時間は全く無かったとですよ」。
なぜ無農薬でなくてはならないのか
 昭和四十四年、地元生協との産消提携で無農薬茶の栽培に取り組むことになった。「当初は『茶畑の一部分を完全無農薬にしてもらえませんか』ということやったとけど、のぼせもんというか、『どうせやるなら全部せんばたい』そう言ってしまったとです」。
 こんな大変なことになろうとは。すぐに後悔することになる。土が出来てないから収量は三分の一になった。病気や害虫が大発生したから、味も香りもさっぱり、とても商品と呼べるものではなかった。「とにかく散々な目に遭った。こんなに無農薬栽培が大変だとは思わなんだ。後悔したね」。

 同業者や地域の人達が遠慮のない冷たい視線を浴びせた。「無農薬でお茶が出来るわけがない。親二さんは騙されとるとよ」。そのうち、朝夕の食事にも困るようになった。「正直なところ、こっそり農薬をかけたくなったね。朝早く誰も見てない時にこっそり、その誘惑に何度も挫けそうになったとです」。
この状況が結局、五年間も続いた。「この五年間の家計は、それはそれは大変でした。地獄を見ました」。
 なにくそ、親二さんの負けじ魂に火がついた。病気にならない、害虫に強いお茶作りは、とにもかくにも土作りだ。そのために土壌微生物を徹底的に勉強することにした。
 一キロの生茶から作られる新茶は、わずか二百グラムに満たない。しかも、葉は非常にデリケートだから茶摘みには細心の注意と熟練の技が要求される。まして、完全無農薬のお茶である。収量そのものが三分の一に激減、これで果たしてやっていけるのか。

 なぜ無農薬でなくてはならないのだ。何度もそれを自分の心に問うた。「孫に飲ませても安心なお茶にしたい」。これで、やっと迷わなくなった。ふっ切れた。

 五十三年、高校を卒業した長男の誠さんが、続いて五十五年には次男の正紀さんが就農してくれた。よりしっかりした土作りをしたい。病気や害虫に負けないお茶の木にしなくては。兄弟の仕事は腐葉土や家畜の糞を集めてくるのが日課になった。病気予防の米酢やニンニク、ドクダミ、唐辛子で文忌避剤を作る作業も。ニンニク、ニラ、除虫菊を植えて害虫の被害から守る。これは昔からの農家の知恵。忌避剤はそれを参考に、兄弟が力を合わせて独学で作ったものだ。 
過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今

 弟の正紀さんは北村園、兄の誠さんは北村製茶の担当という具合に、結局二つの法人にした。誠さんの夢は、直接消費者とつながる営業形態にすることだ。生産地に訪ねてきてもらう。こんな嬉しいことはない。私が訪ねたこの日も、横浜からやってきたという老夫婦が駅からタクシーを駆って訪ねてきた。「安心しました。この地形ならなるほど、本当の無農薬栽培が出来ますね」。そう言って、お茶をたくさん買い込んだ。「よろしければ、これも持って帰ってください」。サツ子さんは、いつものように自家製のダイコンをプレゼントした。
 「安心、安全そして美味しいから、北村さんの作ったお茶しか飲みません」。そういうお客様の声に励まされて無農薬栽培にこだわってきた。
「最近はお客さんがお客さんを紹介してくださるようになってきました。遠方からわざわざご注文をいただいています。ありがたいことです」。少しずつ誠さんの思い描く形になりつつある。現在、北村一家三世帯十一名に、男性三名、女性一名の従業員がいる。

 昨年の秋、手作りのイベント、「茶畑お月見会」が開催された。月を愛でながら茶そばと鮎を味わう会である。照明は青竹の筒にローソクを立てて並べた。月の光とケーナの調べで幻想的な世界になった。このイベントを企画したのは、佐世保市上本山町の神山秀純、秀美夫妻。神山さんは催事、舞台製作、映像の会社・株式会社キャップフォーメーションの代表取締役である。
 それは六年前になる。野草を摘みにたまたまこの牟田原までやってきた秀純さんが偶然、北村茶園を見つけた。「聞くほどに凄い人がいるもんだと思いました。無農薬のお茶をこんな山奥で、しかも二十年前からと言われるでしょう。すっかり北村茶園のファンになってしまいました。またそのお茶が美味しいんです。今、ウチでは北村茶園のお茶しか飲まないんです。正確に言えば北村モノしか飲めなくなったというのが正しいかな」。

 「茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり」と栄西禅師の喫茶養生記に著わされている。一服のお茶には体にいいといわれる成分が、実に多く含まれている。お酒やタバコ好きの方にビタミンC。甘党や高血圧の人にビタミンP。疲労、食欲不振を回復するカフェイン。虫歯の予防に役立つタンニン。ガン、生活習慣病予防に役立つカテキン等々。文字通り、養生の仙薬である。
 また近年は、茶の持つ機能性成分を活用して思いもよらぬ新商品が次々と生まれている。消臭、抗菌というお茶の持つ機能性成分を抽出、入浴剤、洗剤、電化製品、衣類等、様々な分野に用いられているという。まさにお茶は、「古くて新しい健康素材」として再び、見直され始めた。安全、安心の無農薬茶ならなおさらである。やっと時代が北村茶園に近づいてきたと言えるかもしれない。北村茶園に寄せられる期待は大きい。

 陶芸家、故河井寛次郎が遺したこんな言葉がある。「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」。そっくり北村茶園のことである。
 PHP研究所出版「ほんとうの時代」2001年3月号掲載
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